「ヒト、犬に会う」

「ヒト、犬に会う」

犬がいたから「ヒト」は「人間」らしくなった。

犬のおかげでヒトは人間になった。

人間の心の特性に犬が関係しているならば、言葉の起源にも関係しているだろう。

言葉は神とともにあったというキリスト教文明の前提が正しいならば、犬こそは神なのだ。

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こんにちは!

イモムシカアチャンです!

「ヒト、犬に会う 言葉と論理の始原へ(島泰三)」を読みました。

先述したのは、前書きの内容です。

「犬こそは神なのだ!」と書かれたこの本についての読書記録です。

ヒト犬に会う

犬の力

この本には、「犬の力」のすごさを証明する事例がたくさん紹介されています。

(事例が多すぎて、途中で読むことに飽きてしまいそうになったのですが…乗り越えました!)

中でも、自宅から数百メートルのところで、突然の嵐に出会ったエスキモーの老女話を読みながら、今起きている様々なことが頭に浮かび、入り混じってしまいました。

エスキモーの老女は、視界が数十センチの雪嵐の中で、近くで見つかるはずの家を探し回って、体力を消耗することなく、風を避け、体力を温存するために眠り、寒さで目覚めれば飛び跳ねて血の巡りを良くし、70時間繰り返し、嵐がおさまったとき、すぐそこに見えた自宅へ帰還したそうです。

「彼女には、エスキモーの犬たちが、吹雪の中をやり過ごす姿が見えていたに違いない。人間は、現実のホワイトアウトと妄想のホワイトアウトが一致したとき、絶望する。」そんなお話でした。

・・・・・以下要約

犬は、極限の現実のホワイトアウトには、合理的に対応するしかないことを知っている。

犬は、妄想のホワイトアウトに絶望することはない。

的確な判断によって、自分と主人を救う犬のなんと多いことか。

反対に、人間は、合理的に判断することは皆無に近い。

客観性は人間の能力ではとうてい達しえない高みである。

人間はあまりに多数の偏見によって自己の人格を形づくっていて、そのバイアスからしか事柄を判断できない。

むしろ、恣意的であり、極限状態を想定することもできない。

しかも、極限状態になると「想定外」と言ってのけたりする。

そもそも人間は、合理的に判断できない生き物なのだ。

合理的な判断ができないので、妄想のホワイトアウトに絶望しがちだ。

妄想のホワイトアウトの最たるものは、「死ぬ」という観念だ。

客観性も論理も「死」の脅威を前にふっとんでしまうというわけだ。

ヒトは、犬との協同生活によって、合理的判断が有用であることを学んできたはずであり、人間らしさを手に入れたはずなのだが…。

現代社会は、犬との協同生活から離れすぎたのかもしれない。

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犬をペットとして愛玩動物として「飼う」人間は多いけれども、生活のパートナーとして極限状態をともに乗り越え支えあって生きている人間は、もはや日本にはいないはずです。

犬と暮らしていると、犬は未来を憂うことがないことはよ~くわかります。

妄想のホワイトアウトに絶望することは間違いなくないですね。

明日のことをくよくよ悩んでいる犬を見たことがありません。

現実のホワイトアウトに対して、おびえることはあっても。

人間は、コロナ禍で膨れ上がった「死」の脅威を前に、客観性も論理もふっとんでしまっているな…今起きていることと重ね合わせながら読んでしまいました。

「ことば」はどのように生まれたか

「言葉は犬によって生まれた。言葉は神だ。ならば、犬は神だ。」

内容をここで説明するとすごく長くなるし、著作権の問題にも触れてしまいそうだから割愛しますが、農耕牧畜を犬と協同作業するために、言葉が必要になったのだとこの本には書かれています。

ヒトがヒツジやヤギの大群を扱う上では、犬とヒトの間で言葉を共有する必要があった。ヒト以上に頼りになる犬との協同作業を効率化し、生産性をあげることができるようになるからだ、と。

ヒトとヒトとのコミュニケーションよりも、ヒトと犬とのコミュニケーションの方が先。

?本当?と思いましたが、まぁそれもありかと思える話が続きます。

「農耕牧畜文明は、犬によって始めることができた。犬なしには、農耕牧畜文明は始まらなかった。」

人間はヒツジやヤギを追えないですからね。

「『福音書』では、はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。万物は言葉によって創られたとあり、言葉は犬との協同生活によって生まれたのだから、犬は神なのだ。」

そうね、犬も猫も大好きなカアチャンにとっては、犬は神であり、何なら猫も神であるといわれても、何の異論もありません。

この本に書かれているたくさんの事例を紹介されなくても、もともと犬は神だと思っているので、何の反論もありません!

何なら、犬との協同生活は(猫との協同生活も加えたい)、「神との暮らし」といわれても、何の異論もありません。

犬と猫とともに農耕牧畜安寧を祈るのみです(アーメン)。

犬と猫との暮らしは、妄想のホワイトアウトに絶望することはありませんから。平穏です。

犬好き、猫好きな方には、かなり共感できる本だと思います。

「犬は(猫は)神だなぁ」と感じる場面にすでに遭遇している人は、さらに犬神様&猫神様への信仰心が強くなるのではないでしょうか。

最後に

けれども、残念ながら犬と人間は、オンライン上で言語的コミュニケーションをとることはできません。

人間同士はどうでしょう?

仕事など、業務連絡程度ならオンライン上で意思疎通できますけれども。

重要な意思疎通の要素は、声やボディランゲージや指差しだけでなく、目と視線だと言われています。

目を合わせること。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。

人間同士の場合も、オンライン上のコミュニケーションだけで意思疎通をはかるのはどうやら難しそうです。

この本の内容に合わせて考えてみます。

・・・・・以下要約

犬はその昔、パブリックな存在でした。地域社会の中でみんなに飼われていました。公の犬です。

そこには善意がありました。公の悪用はありません。

ヒトの子は、公共の場で、リアルな犬とのコミュニケーションを通じて、犬の客観性や論理を学び、人間らしさを手に入れてきました。

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ならば、ヒトが犬との協同生活の中で手に入れた人間らしさは、オンラインに偏りすぎた言語的コミュニケーションによって失われてしまうかもしれませんね。

新コロナウイルスの感染予防のために、何もかもオンライン化していきそうです。

リアルな公の場が失われ、オンライン上に公の場が移っていくのでしょうか。

公のものがどんどん失われていきそうです。

「コロナ後の社会」、「新しい生活様式」というものが無理やり押し寄せてくる中で、濃厚な人間同士の接触の機会も減ってしまいそうです。

そうなれば、目や視線を合わせたコミュニケーションの機会も減るのでしょうか。

そのとき、人間らしさは、どうなっていくのでしょうか。

この本の内容に合わせて考えていくと、人間らしさを失いかねない事態に直面しているということになります。

犬との協同生活で手に入れてきた人間らしさ。ヒトに戻らないために。人間らしさを失わないために。

この本を読みながら、コロナ禍の見えなさ加減は、 妄想のホワイトアウトそのものだなぁと感じてしまいました。

客観性や論理より、怖さ、感情に支配されたホワイトアウトです。

妄想のホワイトアウトに絶望しないよう、極限の現実のホワイトアウトに直面したときに、合理的な判断ができるよう、犬との(猫との)協同生活に磨きをかけていきたいな、そんな風に思えた本でしたとさ。おしまい。

※けっこう、読むのに時間がかかりました。でも読み切ると、「なるほど」という読後感になれます。

インスタグラム短歌・狂歌

インスタグラム@imomushikaachanに投稿している短歌・狂歌です。31文字4500首を目指しています。デザイン画像はCANVAで作成しました。

31文字の縛りがあると感情をコントロールしやすいので、 せっせと作っています。

ここに載せたものは以前投稿したものです。

短歌 横浜の
短歌 雪国の
短歌 コンコンと
短歌 カネゴンは
短歌 テレワーク
短歌 民草に

それでは、おやすみなさい。